遍遊:ある街の不安

 その街には,笑顔がなかった。駅を出てすぐの商店街は,大通りと並行して走り,長く続く。金曜日の昼前,店のほとんどは閉まっており,アーケードのスピーカーからながれる流行りの音楽だけが虚しく響いていた。人通りはあるが,東に向かう人も,西に向かう人も,ただそこを通りすぎていくだけだった。うっすらとした寂しさが襲う。青果店の店先に並べられた商品を見ながら,数ヶ月前に行った釜山の市場を思い出した。思い出されるのは人が持つ熱,生きる力のようなもので,つい比べてしまう。商店街の道幅の広さも手伝って,熱,人の「軸」のようなもののなさが,とてつもなく不安にさせる。

 迎え入れられているような雰囲気はなく,異邦人でも見るかのような視線を感じ,つい足早になる。街に不安を感じると,どうしても知っている店に入りたくなる。広いセブンイレブンに入り,馴染みの商品を流すように見ながら安心を探した。理解できる言葉を話す人々が,機械的に話す言葉がまるで外国語に聞こえる。郊外の不寛容な地域で,聞き取りにくい私の英語を聞き取ることを諦めたイギリス人の店員を思い出す。「一体ここに何をしに来たんだ?」と言われているような気持ちになった。攻撃的なことを言われたわけでもなく,邪険に扱われたわけでもない。なのになぜ,私はこの街でこんなに不安を感じるのだろうか?

 商店街の西端まで至り,突き当たった国道を南に進む。右手に見えた公園に石碑が見えたので向かう。空襲の被害者の慰霊碑だった。私の後から来た自転車に乗った人が,私と同じように慰霊碑の写真を撮っていた。その姿にものすごく安心した。商店街で出会った人たちが,まるで自分の生きること以外には興味を持てないような様子だったからだ。階段を少し上がり,公園の中心と思えるようなところに来たが,入るのを躊躇うほど雑草が生い茂っており,中を通ることもも憚られた。近くに野球場が見えたが,公園では球技などは歓迎されていないようだった。遊んでいる子どももいない。何のためのスペースなのか,不思議だった。気になって調べてみると,桜の時期には多くの人が訪れる公園だという。屋台なども出るらしい。訪問した7月中旬の正午近くは,通り抜けるまばらな人がいるだけだった。

 国道を南に下り,カトリック教会を目指す。15分ほど炎天下の中を歩く。大病院の横を歩いている時,週末に控えた参議院選挙の選挙カーが通り過ぎた。「治療中の皆さま,お休みのところ大変お騒がせしております。医療従事者の皆さま,・・・」というスピーカーが興味深い。見学可能な時間帯であったので,19世紀に遡り,1950年代に今の場所に移されたというカトリック教会に入る。見学者がすでに1人いたが,感じよくすぐに出て行った。薄暗い教会の中で由緒を読みながら,ホッとするでもなく,かといってすぐに出て行きたいという気持ちになるでもなく,15分ほど滞在した。広報誌を手に取ると,自分よりも2つ年下で,2006年に15歳で亡くなった少年がカトリック教会の聖人に列せられたという記事を見つける。彼への祈りでいくつかの奇蹟も起きているようだ。教皇が亡くなったことで列聖式は延期されているとのことだった。

 教会から少し南に下り,駅が見えたので電車で中心駅に戻ることにした。自分が住む街では見慣れない淡いブルーに赤いラインの電車だったので,写真に収めた。駅前のコンビニで炭酸を買い,しばらく店前で通り過ぎる車や人々を見ていた。中心駅の近くの商店街よりも,店員も,訪問者も,いきいきと見えた。あの商店街では,人々は皆何かを恐れているようだった。そこに戻るのは少し勇気がいった。乗客がまばらの電車に乗り,3つほどで中心駅に戻った。楽しそうに話す高校生や駅員を見て少し安心しながらも,やはり不安のレベルが高かった。駅の中のハンバーガーチェーンやうどんスタンド,直結するバスロータリーには人が多く,賑わっていた。笑顔もあったし,楽しそうに話す様子も見えた。

 宿泊するホテルが先の商店街の中にあったため,再び東端から商店街に入る。数時間前より人が多くなっていたが,通る人皆に見られているような気持ちになるのは変わらなかった。不審の目。自分が可視化された異物のような気持ちになった。気になる存在だけど,近づきたくないと思われている。そんな感じだった。疲れ果ててホテルで仮眠し,夜暗くなってから商店街と並走する大通り沿いを少し歩いてみた。大通り沿いの店はどこも賑わっていて,皆楽しそうに食事をしていた。車通りも多い。とにかく,歩いている人が少ないのだ。店の中だけに人がぎっしりいて,道に人があまりにもいないので,ものすごくアンバランスに感じた。普段は道に人が多くて嫌になることが多いのに,人がいないことや,人がいないのに店の中にはたくさん人がいることに違和感があってたまらなかった。「この人たちはいったいどこから来たの」。店の明るさと道の暗さのコントラストで,全ての店がまるで千と千尋の湯屋のように見えた。

 翌日,知り合いの家に向かう。その知り合いから紹介された店で,朝食を買い届けることになっていた。商品も店構えもとても素敵な店だったし,何度か主人らしき人に声をかけてもらった。4人分の朝食を購入し,店から出る時も声をかけてもらった。でも,やっぱりうっすらとした陰のエネルギーを感じた。気にしないふりをしているけど,そこにいる全員が私がどこの誰で,何をしに来たのか,そういうことが気になって仕方ないような雰囲気だった。歓迎されていない者として可視化されるってこういう感じだったよな,と,抑圧していたはずの過去までじわじわと思い出してしまった。

 知り合いの家につき,やっと何かが肩から降りた気がした。つい,「外国に行った時よりも,外国に行った気分になった」「この街は何か不思議だ」と話してしまった。別の街の出身で,その街で長く暮らすあるひとは,静かに,「何となくわかる気がする」と言った。それは,埋没できない息苦しさのような,不安である。その不安は私にとっての不安ではなく,その街自体が持つ,決して埋没することができないという不安なのであった。


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